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上五島が生んだ努力の建築家 ~鉄川與助と世界遺産候補の教会堂建築~

鉄川與助の作成した図面(鯨賓館ミュージアム蔵) 撮影:髙橋 弘一             江上天主堂の祭壇の図面であるが、田平天主堂の現場で描かれたことが裏書からわかる。この時期は複数の教会堂を同時に設計施工しており、鉄川與助にとって教会建築の充実期であった。 頭ヶ島天主堂(新上五島町友住郷頭ヶ島に所在) 撮影:髙橋 弘一               当時、頭ヶ島では資金難で苦労したため、地域に産出する砂岩を利用することで建設費を抑えたが、良質な石材であったため、結果的に頑丈で長持ちする教会堂が完成した。

 世界文化遺産候補「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」が登録に向けて随分と近づいて来たように感じます。この「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を世界遺産へとの運動を進めていた当初は、長崎、五島、平戸などで囲まれた「トライアングル地域」の教会群を構成資産に考えていたと聞きます。すなわち、教会群の建物そのものを世界遺産にしたいと考えられていたそうです。現在、世界遺産の推薦書の中では、「日本における西洋文明の伝播とキリスト教の繁栄、キリスト教への弾圧と鎖国、潜伏キリシタンによる信仰継承、開国とキリスト教信仰の復活」という流れのストーリーが世界に類をみないとされ、教会群の建物はキリシタンからカトリックへの復活における開花の象徴とされています。
 世界遺産候補「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」は14の資産で構成されていますが、そのうち平戸島内と島原半島の構成資産を除いた10の資産が教会堂建築に関連しています。さらにそれらのうち5の資産〔*1〕の教会堂を設計施工したのが建築家、鉄川與助です。まさに、「鉄川與助」無しには長崎の教会群を語ることが出来ない存在といえるのです。
 鉄川與助は明治12年(1879)長崎県南松浦郡魚目村(現在の新上五島町)丸尾郷〔*2〕で富江藩の御用大工を務めた家系に生まれました。明治後半から昭和前半にかけて数多くのカトリック教会堂建築を設計・施工し、やや乱暴な言い方ですが、戦後の会社組織時代を含めれば50を越えるカトリック教会建築に関わりました。22歳の頃に北魚目村の曽根教会の建設に関わり、そこでフランス人宣教師のペルー神父より教会建築を学んだことを契機に、教会堂建築と深く関わるようになりました。以降、五島を始め、佐賀、福岡、熊本、宮崎など九州内を中心に多くの教会関係の建物を建設しました。新上五島町においては冷水、青砂ヶ浦、大曾、頭ヶ島などで当時建てられた教会堂が現在でも使われています。晩年の聞き取りから、ペルー神父から教会堂建築に必要なリブ・ヴォールト天井の架構や幾何学などを学んだそうです。
 與助の向上心はたくましく、次々に新たな技術を習得するとともに、ド・ロ神父との出会いや、塚本靖の推薦で入会した建築学会などを通じ、鉄筋コンクリート構造のような、より高度な技術を習得していきました。特筆すべき事項として、昭和6年(1931)自身の出身である魚目小学校に鉄筋コンクリート構造の校舎を建造したことがあげられます。與助の得意分野であった教会堂建築に鉄筋コンクリート構造を応用するのは当然として、学校建築においても鉄筋コンクリート構造を採用しました。当時の長崎県において小学校の校舎で鉄筋コンクリート3階建として建てられた早い例で、魚目村のような五島の小さな村に昭和6年当時に立派な鉄筋コンクリート3階建の校舎が建てられたということは大きな驚きです。このことはまた魚目村(旧新魚目町)が教育の町といわれるほど教育に力を入れてきたことを良く表わしているといえます。
 大正3年(1914)に日本人建築家第一号のひとり〔*3〕である辰野金吾により、中央停車場(東京駅)が竣工します。その頃與助は前年の大正2年(1913)に鉄川組事務所を長崎に移し、同年、福岡県の今村に正面に塔を2つ設けた大規模な教会堂を軟弱地盤を屈服して完成させています。佐賀県の唐津出身である辰野金吾は工部大学校において、イギリス人建築家コンドルより建築学(当時は造家学)を習得し建築家としての道を華やかに進みました。鉄川與助は明治時代の終わり頃にフランス人ド・ロ神父と出会い、建築の指導を受けますが、大学校のような高等教育を受けることなく、ほぼ独学ともいえる自身の努力によって高度な建築学を習得しています。大変失礼な言い方かもしれませんが、一地方の小さな村の大工が、高度な教育を受けることなく、自身の努力により建築家といえる活躍をするようになったのです。実に素晴らしいことであり、上五島の誇りであるといえます。
 鉄川與助が建設した教会堂は文化財指定されたものも多く、2015年7月の時点で5件が国の重要文化財に指定されています。他にも長崎県有形文化財に5件の建造物が指定されています。ひとりの建築家の作品がこれほど多く文化財指定されていることは少なく、いかにそれらの建築物が優秀であると認められたといえます。国の重要文化財に指定されたということは、その建物は国民の宝として未来永劫に保護され、残されていくということなのです。単純な比較が出来ないことは当然ですが、その指定件数だけを眺めた時、前述した辰野金吾に次ぐ指定件数に匹敵するのではないでしょうか。
 このように自身の向上心と研鑽により、数多くの教会建築を始め、事務所、学校、寺院、住宅などを手掛け、その数は100ほどあるそうで、自身で設計した教会堂の数〔*4〕は30ほどになります。
 鉄川與助は晩年を横浜で過ごしますが、昭和51年(1976)97歳でその生涯を全うしました。
     
   新上五島町 教育委員会 文化財課  主査  髙橋 弘一

脚注参考文献: 鉄川与助の教会建築(2012年 LIXIL出版)

*1 大浦天主堂の前にある旧大司教館も鉄川與助が関わっており、これを含めれば6資産になります。
*2 明治12年当時は似首郷でした。大正2年に榎津郷と似首郷の一部から丸尾郷が設けられました。
*3 工部大学校造家学科の第1回卒業生は辰野の他に、片山東熊、曾禰達蔵、佐立七次郎の4人で、最初の日本人建築家とされます。
*4 與助が設計した教会の数は戦後まだ與助が会社に係っていた時代まで含めても30棟を超えるくらいだそうです。(與助の孫にあたる鉄川進氏談)増改築や教会に附属する幼稚園や修道院などを含めるともっと大きな数になります。