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出島と長崎をつなぐ橋

(写真1) 17世紀中頃の護岸石垣と橋詰 (図1) 出島表門橋完成予想図

 江戸時代、海外貿易港長崎において、貿易と交流の基点となった出島には、重要な二つの門がありました。一つは、出島の最西端に設けられた輸出入品の通り口であった水門です。オランダ船に積まれた輸入品は、水門の南側口から出島内に搬入され、検査を受けました。また、日本からの輸出品は水門の北側口から搬出され、オランダ船に積み込まれました。水門は、世界とつながる窓口であったと言えます。
 もう一つは、出島の中央部に位置する表門です。表門では、出島内への人の出入りを監視し、出島に運び込まれる物資も、この門を通りました。門の前には、長崎の町とつながる橋が架かり、島内への唯一の入場口として、長崎、日本と出島をつなぐ役目を担いました。
 長崎市は、2014年6月から、新たに出島と長崎をつなぐ橋を架橋するため、往時の橋のたもとに当たる江戸町側の発掘調査を実施してきました。これまでの2年に渡る調査で、二つの時代の橋詰の石垣を発見しました。橋詰とは、陸地と橋をつなぐ「たもと」の部分で、橋の土台にも当たります。これらの橋詰は、拡幅の状況と出土資料の年代から推察して、内側の17世紀中頃の橋詰が木橋の時代のもので(写真1)、外側の橋詰が延宝6年(1678)に木橋から石橋に架け替えられた際に拡幅された橋詰の石垣と考えられます。この時期、中島川沿いにはすでに多くの石橋が架かり、延宝年間には万橋(延宝6年・1678)、桃溪橋(延宝7年・1679)、芊原橋(延宝9年・1681)が新たに架橋されました。
 今後、長崎市は、出島に入場するための新たな橋を架橋します。これまで関係機関と協議を重ねてきましたが、現在の川幅では、河川内の橋脚の数や位置、規模などに制約があり、それらを踏まえて検討すると、往時の石橋をそのまま復元することは現状では困難であることが示されました。このような中で、出島の景観と調和し、出島が引き立つことをコンセプトとして設計された人道橋がデザインとして採用され、現在、その架橋の準備に入っています。(図1)新しい橋は2017年に完成予定です。この橋を渡って、新たに復元が進んだ出島に入場し、往時の隔離された空間であった出島、そしてさらに、長崎市中と再びつながる出島を体感していただきたいと思います。

長崎市出島復元整備室 学芸員 山口美由紀