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長崎歴史文化博物館 開館10周年記念特別展 「日独修好150年の歴史 国際都市・長崎からみたドイツ?もうひとつの交流史?」

ルイス・クニフラー(C.ILLIES&CO.) 『プロイセン東アジア遠征隊』 長崎 段丘にある寺院(東京大学史料編纂所)

 日本とドイツは150年を超える交流の歴史があり、相互の国民性・価値観に親近性を感じる機会は数多くあります。ドイツといえば、車や精密機械などの工業技術、音楽やビールなどの文化面などが想い起されますが、これらの技術や文化は違和感なく日本人に受け入れられ、親しまれています。しかし、オランダ商館医であるシーボルトがドイツ人であったこと、開港したての長崎に来たドイツ人商人ルイス・クニフラーが出島全体の敷地4分の1を占めるほどの大商会を構えていたことなど、長崎とドイツに関する深い繋がりを物語るエピソードは、実はほとんど知られていません。

 江戸時代からヨーロッパとの交流があった長崎には多くのドイツ人たちが訪れました。オランダ商館医を務めたドイツ人医師のケンペルやシーボルトは、長崎を通じて日本に西洋の知識を広め、帰国後にはヨーロッパで日本に関する紹介活動を行いました。彼らの活動はドイツにおける日本像・日本観を浸透させ、歴史や文化に対する相互認識が深まる契機となりました。いわば、長崎は日本とドイツの交流史において起点の役割を果たしたともいえます。
 江戸幕府による鎖国政策が終焉し、1861年(万延元年)1月24日には、プロイセンとの間で修好通商条約が締結されます。明治時代になると、日本はドイツから法律や軍事、科学技術、文化などの諸分野で知識を導入しました。伊藤博文が大日本帝国憲法の起草にあたりプロイセン憲法を参考にしたことは周知の通りです。
 1914年(大正3)に始まった第1次世界大戦では、日本とドイツは交戦国として対峙します。この戦争では、長崎の郷土部隊である大村歩兵第46連隊がドイツ租借地であった青島に出征しています。ハーグ陸戦条約に基づき、青島で捕らえたドイツ人捕虜を入れる収容所が日本各地に設置され、収容所内において日本人とドイツ人捕虜との文化交流が育まれました。現在、日本において年末に演奏されるベートーベン『交響曲第9番』は、ドイツ人捕虜が日本に伝えた文化の1つです。音楽の他にも、パンやソーセージ・ハム製造の食文化も、ドイツ人捕虜によって日本に伝えられました。

 本展覧会は開館10周年を記念した催事として、国立歴史民俗博物館との共同主催により開催され、ドイツ本国が所蔵するオイレンブルク使節団にまつわる資料の他、ドイツに残るシーボルト末裔ブランデンシュタイン家所蔵資料が展示されます。その他にも、日本とドイツの技術交流を示す資料として、ナチスドイツからの譲受潜水艦U511(日本名は呂500)に関する研究資料や図面など、ドイツ本国には現存しない貴重な資料を間近で御覧になることが出来ます。近世から近代、そして現代へと続く長崎とドイツの親近性を物語るエピソードを紹介し、長崎における新たな海外交流史の一面を紐解いていきます。

                   長崎歴史文化博物館 研究員 林 美和

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